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言葉と音楽

今治市でのコンサートのプログラムより

私にとっては未踏の地である四国にて今回演奏できる運びとなり、光栄に思っている。初め「今治市」と目にした時に、イマハルでもイマジでもなく「イマバリ」と読めた自分に、ドイツに25年も住みながら、やはり日本人なのだ、と変な所で感心してしまった。

このスペースに、留学中の苦労話などを書いてほしい、と頼まれた。

はて、と考えてまず思い浮かぶのは、やはり言葉だろうか。

ヨーロッパの国々では、多数の隣国と陸続きなのもあって、多数の民族が混ざって各国に生活している。だからかどうかは知らないけれど、彼らは外人が自分たちの国で生活するとなると、当地の言葉ができて当然、と思っているフシがある。ドイツへ来た当時、こちらがシドロモドロになりながら一生懸命に単語を連ね合わせて喋っても、お世辞の一つもなかったのを思い出す。

日本というのは島国のせいか国民性なのか、「外人」にはどうもバリアーを張ってしまうところはないだろうか?だから、コンタクトの取り方も下手になりがちかと思う。これは、日本の政治家たちが、諸外国の同僚たちと会談するシーンなどをテレビで見ても感じる事である。

さて、私の方へ話を移すと、最初の何年かは自分の意思や感情を自分の中で育っていない言語で伝えるもどかしさ、またそれを思うように操作できない自分にかなり手こずっていた。まるで、左手に箸を持ち替えて食事を強いられているような・・・。

今となっては、当時に比べると日常生活や仕事の面などではそう言った労苦は減ったかもしれない。しかし、どの言葉をとってみてもそうかもしれないが、私にはドイツに滞在する時間が長く慣ればそれだけ、ドイツ語の持っている深さや複雑さ、また美しさのようなものに日々の暮らしの中で印象付けられることが多い。

「言葉が終わる時に音楽が始まる。」これは、確かホフマンというドイツの19世紀の作家の言葉だったかと思う。つまり、言葉の伝えられないもっと深い心の奥底まで訴えてくるのが音楽だ、ということらしい。それは、クラシック音楽に限ったことではないだろう。演歌でも、ロックでも同じだと思う。まさに理屈ではなく、ただジーンと胸にしみるもの、これがその魅力ではないだろうか。

音楽は、言葉のように「理解」する必要はない。だから、当然かもしれないが、ヨーロッパの音楽でも、日本人の心に響くのだろう。さて、それではヨーロッパ人に日本の三味線、または演歌などを聴かせたら、一体どのような反応を示すのか・・・ちょっと、興味のあるところだ。

今回のコンサートは、幼稚園の体育館で、ということで、果たしてどんなピアノに、そしてどんな聴衆に巡り合えるのか、正直不安であり、また楽しみでもある。私としては、来ていただいた方々に、できれば「ジーン」を味わってほしいと、只今日々の雑用に揉まれながら準備中である。

一張羅を着て背筋を伸ばしてフランス料理を、ではなく、ジーパンで立ち寄った居酒屋でちょっと一杯ひっかける気分でお越し願いたく思っている。

プログラムノートより2010年 今治市のコンサートにて

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