楽器を演奏することは、英語ではPlay,ドイツ語ではSpielenと、どちらも直訳すれば『遊ぶ』という意味になる。なぜ、そのような意味を含んだ動詞を、楽器を『弾く』及び『演奏する』ことに欧米では関連付ける由来になったのだろうか。
舞台上のアーティスト達は、どう見ても真剣そのもの、特にクラシックの世界ではほとんどのコンサートが、観客の方も息が詰まりそうになる緊張感に溢れている。 そこで、『遊ぶ』という単語を結びつけるのは、正直どこか場違いな感がしていた。
数年前のオリンピックの時期に、たまたまテレビをつけたら、丁度卓球の中継をやっていた。 確か、準決勝で、対戦は中国とドイツだった。 ドイツ側は、ティム・ボルというその当時ドイツ卓球界をリードする人気の選手。
私は、その彼のプレイから、目を離すことができなくなってしまった。
相手の中国のプレーヤーは、まるで『必勝』というロゴをひたいに貼り付けているかのような熱血ぶり。ボルは、球をあっちへやったりこっちへ飛ばしたり、フェイントをかけたり、と先が見えないプレーをし、相手を振り回す。スキあらばスマッシュで点に結びつけようと、ひたすら機械のように打ちまくる相手側の選手とは、まるで対照的だ。
しかしながら、ボル選手はミスも少なくない。
試合も後半に入り、ボル選手はジワジワと点を奪われて窮地へ追い込まれてゆくのだが、相変わらずサーカスの綱渡りのような、見ていてハラハラさせられるプレーをやめない。勝ちたくはないのか、焦りはないのだろうか・・・。
最終的には、ボル選手は負けてしまう。だが、その試合を見終わったあと、私は心が洗われるような, 凡庸な表現になるが、<清々しい>気持ちになった。
もしや、これが本当の意味での『Play』なのかもしれない、とふと感じたのは、それからかなりの年月を経てのことだ。
『この機会は、2度と巡ってはこない。だから勝ちたい!』ではなく、『だから自分のプレーがしたい。』 あの試合は、そんな直向きな思いと、卓球というスポーツを愛するボル選手の姿がとても印象に残った。
最近、人生、どんなに追い詰められても、どこか心の片隅に『遊び』の空間を持って生きていけたら素敵だなあ、としばしば思うのだが、残念なことに私は人間の器がボル選手に比べてかなり小さいらしい。舞台に上がる前などは、この歳になっても相変わらず、まるでギロチン台へ向かうマリー・アントワネットの気分で、溜息と共に『あと何分?』と時計にチラリと目を這わせたりしている始末だ。
私も、ピアノという楽器を通し、将来ボル選手のような演奏を目標に日々研鑽していけたら、と密かに願うこの頃である。
2012年 リサイタル プログラムノートより
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